■3月11日〜4月8日|帰国後の理論研究——「写真とは何か」を問い直す
3月11日に日本へ帰国。M1展を終えたことによる一区切りと、海南島での新たなフィールド経験を経て、自身の研究を「撮影し記録する」という実践レベルから、「写真というメディアそのものを問い直す」という理論レベルへと一段引き上げる必要性を強く意識し始めた。新学期の開始(4月9日)までの約1ヶ月間は、次年度の制作および論文執筆の土台を築くため、意図的に理論研究に専念する期間として設定した。
この時期に集中的に取り組んだのは、写真論および記号論に関する古典的理論書の読解である。具体的には以下を並行して読み進めた:
ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』:オリジナルなき複製、現実を凌駕する記号としての「ハイパーリアル」概念。紫外線写真が提示する「肉眼では決して見ることのできない現実」が、果たして「現実の記録」と呼べるのか、あるいは別種のリアリティを生成する装置なのか、という問いを開いた。
ロラン・バルト『明るい部屋』:「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の二項概念、および写真の本質としての「それは=かつて=あった(ça-a-été)」。なお「プンクトゥム」の概念については、前期の制作過程において細田先生より構図理論の文脈で言及があり、既に部分的に導入されていた。今回の原典読解によって、単なる構図上の「突き刺さる点」という理解から、写真特有の時間性・偶発性を含む概念へと認識が深まり、自身の紫外線写真において観賞者の心を刺す「プンクトゥム」とは何によって生じうるのか、という問題意識を得た。
スーザン・ソンタグ『写真論』:写真行為に内在する暴力性、世界を「収集」する欲望としての撮影。フィールドで採集・撮影を繰り返す自身の行為を、批評的に再検討する視座を与えられた。
これらの読解は、生成AI(Gemini)との対話を補助としつつ進めた。難解な原典を独力で読み込むだけでなく、AIに概念整理や論点の対比を依頼することで、理論間の差異と接続点を効率的に把握することを試みている。
特筆すべきは、AIとの対話が当初の想定を超え、西洋古典美術史への思わぬ寄り道をもたらした点である。たとえばボードリヤールの「シミュラークル」概念を議論する過程で、マティアス・グリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》に話題が派生した。同作品におけるキリスト像の異様に歪み苦悶する身体表現は、単なる宗教的様式ではなく、当時「聖アントニウスの火」と呼ばれた麦角中毒の患者たちを収容していた修道院の慰撫を目的として描かれたものであるという。患者たちは修道院での滞在中に症状が軽減することが多かったが、それは修道院が供給する白パンに腐敗した麦角(エルゴットアルカロイドの原因)が含まれていなかったためであった——という歴史的・医学的背景は、「イメージが現実にいかに作用するか」というシミュラークル論の議論と驚くほど深く共鳴するものであった。このように、理論の学習が予期せぬ美術史的知識の獲得へと連鎖していく経験それ自体が、本期間における重要な収穫であった。
以上の理論的探求は、修士二年次の制作および論文執筆の方向性を定めるための、重要な基礎作業として位置づけられる。「見えない光を可視化する」という当初のテーマに、「可視化されたイメージは何を意味し、観賞者に何を引き起こすのか」という、より深い問いの層が加わりつつある。4月9日より新学期が開始するため、この理論的蓄積を携えて、細田先生との面談および次段階の制作計画に臨む予定である。
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